Monumento

kawa_sanpo

2017/11/09

Tags: ocr-generated 長野県 長和町

Guide plate text

This content was transcribed by optical character recognition. Please cooperate with proofreading.

ocr-generated 中山道
- 下諏訪側(下り)
日和田側整点
古き
C型商標
不可
一語
には 国
この道は、江戸時代の中山道である。和田宿は慶長7年(1602)中山道の設定により調設された。下諏
訪宿まで和田峠越えの5里余(約20ka)の道筋は、慶長19年(16114)ごろ完成したといわれている。
名称は、はじめ「中仙道」であったが、山道のうちの中際の道ということで、享保元年(T1.el)に「中山道」
と改められた。
中山道は江戸の坂裕宿から近江の守山宿まで57窓であるが、京部までの59、132年 10FT(的 20 km)
をいう場合もある。1日7塁(28km)とすれば、7日の行程である。木曽路を通るので「大自街ト」とも呼ば」
れた。信濃には26 宿があった。
和田宿は、江戸板橋宿から 28 番目の宿場である。宿成立以意から入室のあった事・企画を中心に、
上町が、さらに周辺の雨原・網屋・鍛治足・久保などから人を集めに宿を成し、さらに正3年(73)には
下町に続く道川越えの橋場・新国を宿場に組み入れている。
宿場は、幕府の公用旅行者の継ぎ立て業務を取り扱う所であったが、参勤交代で中山道を通行する。
( 34家の大名や、一般旅行者が体泊する場所でもあった。
詳屋
三査
県産のさによって設置 5F
至・松本
天保14年(1843)の「中山道宿村大久子帳」によると宿の長さ 7 58 間約870m)、人数522人、家数 26
軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠屋28、(大12、中ょ、小12)となっている。問屋、本陣、脇本、木酒屋
等は中間付近に集中し、それらを中心に上町や下町まで旅籠屋や伝馬役、歩行役を勤なる家、森店、
商家などが並んでいた。それらの多くの家が農業を兼ねていた。
和田宿は下諏訪宿まで中山道随一の長丁場であるうえ、上り2里半、下り2里撃という種目詳の難所を
ひかえ、継ぎ立てにあたる伝馬役、歩行役の苦労は並大抵ではなかった。天保3年(1832)に和田宿で動員」
した人足は、延17,759人、馬は延7,744匹にのぼっている。文久元年(1861) 1月の神宮通行の際は、4日
間に延8万人が通っている。その後も幕末まで大通行がしばしばあった。
|50人・50 感の宿常備の伝馬でまかないきれない分は、元禄7年(1694)に定められた助郷弱によって、
近隣の村々から動員された。幕末はとくに出勤回数が多く助郷村の負担は大変なものであった。

Texts

monumento
2018-03-27 22:58 (0)
monumento

Comments/Photos

Footprints

0 footprints lefted here.

Embed tag

Guide plate Tour

Spots near

kawa_sanpo (2017/11/09)
Tags: ocr-generated 長野県 長和町
kawa_sanpo (2017/11/09)
Tags: ocr-generated 長野県 長和町
kawa_sanpo (2017/11/09)
Tags: ocr-generated 長野県 長和町
kawa_sanpo (2017/11/09)
Tags: ocr-generated 長野県 長和町