ocr-generated 奥州街道一里塚(史跡)
せになると江戸を中心にして諸街道が整備され、
宿場や一里塚などが設けられた。一里塚は主要街道の
一里ごとに目印として両側に塚を築き、複や松などを
植えた。奥州街道は日光街道と宇都宮で分岐して白河、
までを指し、これらの街道にも一里塚が設けられた。
氏家地内には受原地蔵堂南側と狭間田の二か所あっ
たが、学原一里塚は明治以降消滅した。狭間田の一里
塚も北側は破壊され、南側に一基が現存するだけになっ
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延宝六年(一六七八)の宿並絵図によると、この地
点は、奥州街道の北側は下松山村、南側は狭間田新田
村で、一里塚は両村の宿並中央部に一基ずつ明記され
ている。江戸日本橋を起点として三十二里目にあたる
一里塚である。
奥州街道の一里塚は現存例が少なく、氏家地内唯一
の一里塚として確認できるものである。
氏家町教育委員会