Monumento

hamanobakeneko

2017/11/03

Tags: ocr-generated 鹿児島県 鹿児島市

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ocr-generated 煙硝倉(大薬製造所)の由来
安政五年(1858) 島津斉移は、今の姿山電停付近一帯から清見橋を境に、永田川の下流部、松原納骨堂付近で読区
煙硝倉を建設した。その面積は9町七反歩(約14, 100坪)といわれる。煙硝倉の周囲はからたちの木で囲まれそれら
隣接して稼樹の木が2メートルくらいの間隔で植えてあり、その間に高い杉や松の大木が立っていた。四町七反とい
われる地域には誰も踏み込めなかった。
「薩摩藩海軍史」には、中塩屋の煙硝倉に兵廠30軒、作土仕込み成熟採製は西洋人(イギリス人)が硝石試験をし、他
藩より伝習人も滞在したと記録されている。その後、薩摩各地で絹石工場、貯蔵所が作られているが、谷山の煙硝倉
がその先駆けをなし、指導的な役割を果たした。
西南戦争の際、煙硝倉は官軍により焼き払われたが、この焼け方がすごかったので500メートルも離れた波ノ平付
近の民家などみな類焼の災いにあった。また、ラ・サール高校北側付近に、射場山跡があり神流儀(洋式)泡術の演習
が行われたところで、大砲の射場があった場所である。
「島津斉彬文書」によれば、弘化三年(1846)8月28日、谷山中塩屋において洋式勉術の演習があり、島津斉彬が上覧
したと記されている。大仕掛けの演習で、真夏の炎天下に砂浜での勉車は容易に回らず、多人数で泡事を押して移動
させるなど、全く実戦のようであったといわれていた。
嘉永六年(1853) 幕末ペリー来航以来、内治外交多端な時、島津斉彬は谷山の地において大薬の製造、大砲の演習を
行わせた。

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2018-03-27 23:06 (0)
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