ocr-generated がわぜき
| ル展
ぜき
日女
ル
いなふくみ
雄川堰がいつ、誰の手によって築造されたかを伝える資料
は残されていませんが、織田氏入封以前に現在の原形ともい
える「古雄川堰」があったと推測できます。
関東地方には、このような町並のなかに水路が通っている
ところが三箇所ありますが、すべて群馬県内にあり一番往時
の姿をとどめているのがこの雄川堰です。
「雄川堰の水源は、稲含山(一、三tom)に源を発する雄川
で堰の取り入れロは、これより南方ニキロの所にあり、幾つ
かの難所を克服しています。その最大の場所は、堀沢川を渡
る地点で長さ六メートルにも及ぶ巨大な一枚岩を組み合わせ
た石どいで、水を漏れなく下流へ送っています。
陣屋へ送る水は、一番ロ(一升神)・ニ番ロ(五合桝)・三番
ロ(三合神)と三箇所から取水して、陣屋内に小堰を四通、達
ます
しつうはったつ
おおぜき
させて、武家屋敷の生活用水として利用するとともに、各屋
敷の庭園を潤していました。
一方、陣屋を取り囲むような形で流れる用水(大堰)は、町
並両側の家々の生活用水となり、下流の水田地帯では灌既用
水として活用していました。
織田・松平両氏とも、この雄川堰を大変重視し、管理のた
め御用水奉行を置いていました。このことから、雄川堰を当
時いかに大切にしていたかがわかります。
この用水は、製糸・精米等の動力としての水車にも利用さ
れていました。また、随所にある洗い場は、朝に夕に住民の
生活の場として親しまれ今日に至っています
甘楽町教育委員会
昭和五十八年三月