ocr-generated 義民天国の三助の生家
「天保四年八三)の飢饉から立ち直ることができないのに、天
保七年(八三六)の大飢饉がやって来ました。
その年は、巻からの天候不順に加え、台風の襲来などにより、殻
物はほとんど実らず、餓死者が続出する悲惨な状況となりました。
各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、
米穀商に殺借りの交渉をしても効きめはないので、犬目村の兵助と
下和田村(大月市)の武七を頭取とした団が、熊野堂村(東山梨
都春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出ました。
称して、『甲州一揆』と言われています。
のときの兵助は四十歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、
この一揆の首謀者は、当然死罪です。家族に類が及ぶのを防ぐため
の『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である
『水田屋』に残されています。
一揆後、兵助は逃亡の旅に出ますが、その『逃亡日誌』を見ると、
埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、新潟から日
本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも
足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢を経ていますが、人々の苦怠の
宿や、野宿を重ねた一年余の苦しい旅のようすが伺えます。
「晩年は、こっそり犬目村の帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶
応三年に七十一歳で没しています。
平成十一年十一月吉日
上野原町教育委