ocr-generated 山寺の歴史
江戸時代の笠寺村は、東海道第四十番目の
宿場である鳴海から熱田宿を結ぶ東海道済に
あたり、農業を主な業とし、町並みいは、小
商家、茶屋などがあった。笠寺観音は、尾張
四観音の一つとして人びとにも親しまれ、今
も節分などには露店が並ぶにきわいを見せて
いる。
寺伝によれば、笠寺観音はもと小松寺とい
い、天平五年(七三三)済に流れ着いた霊木に
僧禅光が十一面観賞像を刻み、堂を建てて
安置したことに始まる。その後荒廃しに係
が通路にさらされているのを見た土地の娘が、
自らの笠をかぶせた。この娘はやがて藤原兼
平の妻となり、その縁によって兼平は堂舎を
再興した。これが笠覆寺の名の由来となる。
今はその後再び荒廃したが、意積四年一二三
ハ)僧何願が再興した。
現存する建物は、正保年中一六四四~四
ハ)に建った多宝塔を最古とし、本堂は宝暦
十三年(一七六三)の建立で、その他江戸時
代の各時期に建った仁王門、西門、鐘楼、議
摩学及び大師堂などが軒を列ね、密教寺院の
特色をよく示している。
また、笠寺観音境内には、笠寺千鳥塚、春
両塚といった芭蕉碑も残されているほか、立
寺観音から東南約六百メートルの旧東海道ハロ
いに、市内に現存する唯一の一里塚がある。
平 成 3年 名古屋市