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平野國臣(一八二八〜一八六四)

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2015-09-15

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ocr-generated 平野國臣(一八二八~一八六四)
~明治維新の礎となった福岡の志士~
平野國臣は、文政十一年三月福岡の地行下町(中央区今川一丁目)で生まれる。
父親は、神道夢想流杖術師範・平野能楽、國臣は二男、十四才で小金丸家の養子となる。
弘化二年十八才の春、黒田藩普請方手附として任官。江戸・長崎の勤務を通して文武両
道の修行に励み国学・史学・天文学等を学んだ。二十四才の時、薩摩藩の北条右門と知り
合い、国事を論じ幕藩体制の危うさや、これからの国の在り方などについて深く考える。
安政四年(一八五七)国の為に働くことを決意、養家を出て、妻子はもとより仕官等の
一切の束縛を断ち切り、一人の国の民であるとの思いから名前を國臣と改名。
安政五年、勤皇僧月照を薩摩に送り届ける。月照と西郷隆盛、錦江湾に入水し同船の國臣
が救助して西郷隆盛は蘇生。「幕府の滅亡・日本の統」を目指し諸藩の志士達と交流、
「回天管見策」「培覆論」「回天三策」など、幾多の論文や建白書を書いた。
伊集院の山から桜島を遠望し、雄藩薩摩の決起を願った歌
「我胸の燃ゆる思いにくらぶれば姻はうすし桜島山」
の歌はよく知られている。
文久二年(一八六二)藩主の上洛阻止の罪で秩木屋の牢に捕られる。獄中筆硯を許されず、
こより文字を考案し八千字を越える建策、論説、書簡等を著した。和歌だけでも三百五十
首に上り、「征履説」「神武必勝論」上、中、下は名著である。
文久三年朝旨により禁固を解かれ福岡藩藩命により重役補佐役で上洛する。八月に天誅
組による大和の変が起こり、十月の生野義挙では、七卿の一人の澤宣嘉興を担いで大将に
推挙された國臣は敗れて捕らわれの身となり京都六角の獄に拘囚された。
元治元年(一八六四)七月禁門の変の際、獄吏に討たれる。
秀でた国学者で文人・歌人でもある國臣は燃え立つ憂国の情を数々の和歌や建策、論説
に託しながら動乱の幕末、江戸、京都、大阪、長州、但馬、果ては筑後、肥後、天草、薩
摩と身の危険も顧みず、同志を求め、雄藩の決起を促し多くの志士達と共に新しい国家誕
生のために身を捨てて、大義に生きた。その短い生涯は混乱の世に国の在り方を思い、そ
の見識と献身的行動は明治維新の礎石となった。
享年三十七才 辞世の漢詩
愛国十年東走西馳 成敗在天魂魄掃地
曽孫 原國郎 福岡県柳川市在住 平成二十三年十一月 記
こより文字による「神武必勝論」宮内庁三の丸尚蔵館所蔵

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2018-03-28 12:43 (0)
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