ocr-generated 慶応四年(一八六八年)二月十二日、慶喜が江戸
城を出て上野・寛永寺で謹慎した直後に追討軍が江
戸に到着した。官軍の江戸総攻撃は目前に迫り、
部では慶喜の処刑と大江戸大決戦がささやかれた。
「そんな重苦しい空気のなかで、勝らは大きな賭け
に出た。勝は山岡鉄太郎(鉄舟)を使者として官軍
参謀の西郷隆盛のいる静岡に派遣し、江戸城無血開
城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当たらせた。
山岡は江戸から静岡まで官軍兵士の居並ぶなか、
「朝敵徳川慶喜の家米、山岡鉄太郎、大総督府に参
る」と叫びつつ、早馬を走らせた。東海道を疾走す
る山岡の早馬の図は有名な錦絵となっている。
山岡は西郷の宿舎だった伝馬町の松崎屋源兵衛方
を訪ね、三月九日、西郷・山岡の会見が実現した。
両者は一面識もなかったが、互いに胸襟を開いて
折衝した。その結果を、西郷から駿府城代屋敷を御
座所として静岡に滞在していた熾仁親王に何を立て
ると、宮から七ヵ条の内論書を得た。
最終的には十四日、江戸での西郷と勝の会見で決
着するのだが、実質的な交渉は静岡会見で行われ、
江戸の会見はセレモニーにすぎない。
「歴史の転換期で静岡は重要な舞台となっていたの
です。
(文責
黒澤
倍)、