Mita Water supply
三田灌漑用水
三田用水跡
かつてこの地を流れていた三田用水 は、寛文4年(1664)に中村八郎右衛門、磯野助六の両名が開いた三田上水を始めとしています。この上水は三田、芝、金杉方面の飲料水とするため、玉川上水 を下北沢で分水し、白金猿町までの2里ほどを流したものです。
享保7年(1722)8代将軍吉宗は、室鳩巣の上水が火事の原因になるという意見を採用し、三田上水を含め4上水を廃止しました。しかし、三田、上目黒、中目黒、下目黒の目黒4ヶ村をはじめ流域14ヶ村から農業用水として利用したいという願いが関東郡代に出され、享保9年(1724)に農業用の三田用水として再開されました。
以後、三田用水は豪農等で組織された用水組合により管理されました。農業の他に水路が淀橋台とよばれる台地上を通るので、大正末期まで台地の下に水車を設置した製粉・精米にもさかんにりようされました。また、明治末期からの目黒付近の工業化にともない恵比寿のビール工場の原料水や目黒火薬製造所(後の海軍技術研究所)の用水としても用いられました。
戦後は急激な都市化により水質も悪化し、わずかにビール工場の洗浄用水などとして細々と用いられていましたが、それも不要となり、昭和50年(1975)にその流れを止め、三百年にわたる歴史の幕を閉じました。
下の石は三田用水の木樋(もくひ)の下に設置された礎石(下図のとおり)です。
平成9年3月
目黒区教育委員会
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