ocr-generated 五十一年十一月3日
定有形文化財(建造物)
ふじ せんげんじんじゃほんでん
富士浅間神社本殿
草加市瀬崎町五00番地
「このはなさくやひめのみこと
うぶがみ
富士浅間神社は、木花開耶姫命を祭る。神社創建年次は明らかではないが、
「新編武蔵風土記稿」によると、「浅間社 村の産神とす。善福寺持」とある。別当の
善福寺は、寺伝によると、「寛永四年(
一六二七)の開基にして、この浅間神社は、
他の場所に祭られていたのを、明暦年間(一六五五~一六五七)に、現在地に移建した」と
伝えられている。
現本殿は、天保十三年(一八四二)に再建されたことが本殿内にある擬宝珠銘からわかる。
富士山は古くから霊山として山岳信仰の対象となり、中世になると、富士行人と
呼ばれる本山派修験の人たちが中心となり、一般民衆を引率して富士登山を行った。
江戸時代になると、富士講の開祖と崇められた、角行東覚が出るに及んで、各地域に
講が組織され、先達を中心とした講中が一団となって登山するようになっていった。
ながれづくりいっけんしゃ
「本殿の建物は、間ロニ・ミニが、奥行三・KOMの流造の一間社で、前面に
のさからはふちどりは ふ
「軒唐破風、千鳥破風を配し、随所に彫刻を配し、贅を尽くしたものである。これは当時
わざらし かたづけ こうや
この地方に繁栄した、和晒・形付・紺屋等のゆかた染関連の業者と地元が協力し、
この地の富士講が面目にかけて造営したものと思われる。
「この本殿が造営された天保(一八三〇~一九四三)ごろは、構造材に波紋などを
彫刻するだけでなく、その間に花鳥風月や日本の神話、中国の故事等を題材とした
写実的な彫刻物で装飾することが盛んに行われた。内部は簡素であるが、外観を
中心にした、いわゆる見せる社殿としての傾向が強くなった。この建物もその例外ではない。
現在では、このような豊富な彫刻を配した神社建造物は少なく、特にこの地域での
社寺建築の装飾を研究する上からも重要なものである。
平成二十二年三月
草加市教育委員会