ocr-generated 内田銀蔵博士の生家
明治・大正期の一時代を画した日本経済史学の先駆者、内田銀蔵は明治五年
(一八七二) 正月二十五日、ここ千住仲町で江戸時代初期から続く川魚問屋の
老舗「与」内田与兵衛の長男として生まれました。銀蔵は家業を継ぐ立場に
ありましたが幼少の頃から学問好きで、千寿小学校での成績も抜群でした。そ
して学問の道を熱望したため父親も許し、地方裁判所に願い出て弟善蔵に与兵
衛の名跡を相続させ、学者の道に進みました。
明治二十二年、東京専門学校(後の早稲田大学)政治科に進学して経済学を
学び、さらに東京大学文科大学国史科に進んで二十六年に卒業、「日本経済史
及び史学と経済学との教育的価値」を課題として大学院で研究し、学会誌『史
学雑誌』に日本の古代・中世・近世における経済史関係の論文を次々と発表し!
ました。これが認められて大学院卒業後は東京大学の講師となり、わが国最初
の日本経済史を講義しました。経済史学の創始者と後々までも称えられる所以
はここにあります。
三十五年十月、二十九歳の若さで文学博士となり、翌年一月には文部省の外
国留学生として三年半の長きにわたりヨーロッパの歴史学・経済学を学び、そ
の間、主著『日本近世史』を刊行しました。
また、海外留学中にもかかわらず広島高等師範の教授に任命され、帰国後は
京都大学文科大学の教授も兼任して史学の道を切り開きました。史学といえば
現在も京都大学が一目おかれるのは、銀蔵が築いた研究室の在り方が伝統にな
っているからだと言われています。かくして四十年五月、三十六歳の時、京都
大学の専任教授となり、五年後には経済史のバイブル的存在『経済史総論』を
刊行しています。
第一次世界大戦後の大正七年(一九一八)、欧米各国に出張して翌年帰国し
ましたが、間もなく発病し、七月二十日、四十七歳の若さで他界しました。戒
名は「文教院智顕日明居士」、墓は日ノ出町四ニー」の清亮寺墓地にあります。
二〇〇六年五月
安藤昌益と千住宿の関係を調べる会