幕末の対外交渉に活躍
箕作院甫
(みつくり げんぽ)
(寛政十一年(一七九九)~文久三年(一八六三)
MITSUKURI GENPO
この像は、西洋の学問を志した院甫が、文政六年、藩主に
随行して初めて江戸へ旅立とうとする、立志の姿である。
幕末を代表する蘭学者 箕作阮甫は、津山藩医 箕作貞固の三男として
西新町に生まれた。文政二年(一八一九)津山藩医となる。
文政六年(一八二三)藩主の参勤交代に従い江戸に出て、蘭学の大家で
あった同藩医宇田川玄真に入門。
天保十年(一八三九)から、幕末天文方 で外国文書の翻訳に従事する。
嘉永六年(一八五三)、ペリー 来航時には、幕命によりアメリカ合衆国大
統領の国書を江戸城に登って翻訳した。 また同年来航した ロシア使節
プチャーチン との応接のため長崎に赴くとともに、翌年の伊豆下田での
交渉にもたずさわっている。
安政三年(一八五六)、幕府は蕃書調所 (東京大学の前身〉を創設、阮甫は
教授職へ今の総長格〉に任命され、その基礎を確立する。また、日本
最初の医学雑誌「泰西名医彙講」をはじめ「外科必読」・「産科簡明」、
語学では「和蘭文典」・「改正増補蛮語箋」、西洋地誌では「八紘通誌」・
「地球説略」など、その生涯で九九部一六〇冊の著訳書を残した。
阮甫の子孫からは箕作省吾、箕作秋坪、箕作麟祥、呉文聡、呉秀三、
箕作奎吾、菊池大麓、箕作佳吉、箕作元八など、幕末から明治期の日本
近代化を支えた そうそうたる学者が輩出している。