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2018-02-27

Tags: 沖縄県 西原町

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戦後の糖業と中部製糖㈱の歴史

1.中部製糖㈱の発足前
 沖縄の製糖施設は太平洋戦争によって壊滅状態になった。また、占領期のアメリカ軍政府はサツマイモなどの食料作物の栽培をすすめていたため、終戦直後のさとうきび栽培はごくわずかであった。昭和22年(1947)当時の沖縄民政府(のちの琉球政府)工業副部長の宮城仁四郎氏は、「サツマイモと大豆の輪作だけでは病虫害や連作障害を発生しやすく、農家の現金収入も少ない」として、「沖縄糖業復興の急務について」の意見書を軍政府などに提出した。しかし、軍政府は「沖縄本島での糖業復興は食料の生産が減る」という理由から賛同をしなかった。軍政府として「人口が少なく、戦前糖業の盛んであった南大東島ではじめてはどうか」という提案であった。これにより昭和23年に大東糖業㈱が発足し、昭和26年に分蜜糖製造を開始した。
 昭和25年には琉球農林省(のちの沖縄県農業研究センター)が発足し、「琉球糖業復興計画案」を軍政府へ提出し援助を要請した。この計画案にもとづき、沖縄本島においても南部製糖㈱(のちの琉球製糖㈱)の設立資金の援助を軍政府に陳情した。その結果、昭和26年に南部製糖㈱が設立され、翌年には分蜜糖 750トン/日工場が完成し、製造を開始した。

 昭和27年政府との「日琉貿易覚書」が締結されると、砂糖も本土への輸出が増え、さとうきびの生産は急速に伸びた。一方、製糖工場が不足してきたため、昭和28年に琉球政府は「経済振興第一次五年計画案」を発表し、小型の含蜜糖製糖工場(10~15トン)を増やしていった。その後、小型工場では品質やコスト面において大型工場に太刀打ちができなくなり、琉球農業協同組合連合会(琉球農連)でも大型工場を建設する計画がもちあがった。その中で西原村が候補地となり、昭和31年字嘉手
対に琉球農連第一製糖工場(150トン 含蜜糖)が設置された。

2.西原町に二つの工場が設立され合併へ
 昭和34年(1959)日本政府が発表した甘味資源の自給力強化対策によって、沖縄産糖にも特恵措置が適用され、含蜜糖よりも分蜜糖の生産が有利となった。琉球農連第一製糖工場でも分蜜糖製造に切り替え、規模を750トンにする計画がもちあがった。一方、西原村では飛行場跡地(のちの西原東中学校付近)が返還され、そこに地元を主体とした西原製糖㈱を設立しようとする運動が進行していた。しかし、琉球政府は西原村に2つの工場が並立するのは好ましくないとして一本化の調整がすすめられた。最終的に一本化への合意にはいたらず、琉球政府は規模を縮小して400トン工場の設立を双方に許可した。そして、昭和34年字小那覇に西原製糖㈱は設立され、翌年には2つの分蜜糖工場が完成した。
 さとうきびは農家の重要な換金作物として年々生産量が増えたため、昭和36年には琉球農連第一製糖工場が750トンに増設し、翌年に西原製糖網は750トンへの増設許可を受けた。
 その後、紆余曲折はあったものの昭和39年には両社が合併し、社名を中部製糖㈱に変更し旧琉球農連第一製糖工場を第一工場、旧西原製糖㈱の工場を第二工場とした。

3.本土復帰に伴うさとうきび減産と工場の再編
 昭和39年の合併により中部製糖㈱が発足した後もさとうきびは増産がつづいたため、第一工場を2,400トン、第二工場を1,000トンに増設した。
 ところが昭和44年の日米首脳会談において、昭和47年(1972)に沖縄は本土復帰することが合意された。さらに、昭和50年には沖縄の本部町において海洋博覧会(海洋博)が開催されることもきまった。このような計画が発表されると、公共工事が次々とはじまり、県内景気は好況を呈した。人手不足で人件費は上昇、土地の買い占めで不動産価格は高騰しインフレが進行した。
 さとうきびは農家の深刻な人手不足で収穫が放棄され減産がつづいた。圧搾能力を大きくした2つの工場は、今度は原料不足で休止する日が多く、経営の危機さえ懸念された。このような状況は好転のきざしもないまま、ついに昭和52年の製糖を最後に第二工場を閉じることになった。そして、工場の機械設備はさとうきび増産で工場拡張を計画していた久米島製糖株へ譲渡された。

 その後、中部製糖㈱は1工場で製糖をつづけたものの、沖縄本島におけるさとうきび減産は昭和期の終わりから平成期に至っても、回復する気配はなかった。特に都市化がすすむ沖縄本島では農地の転用でさとうきび減産が著しくなるばかりであった。
 そこで本島中南部の3社(中部製糖㈱、琉球製糖㈱、第一製糖)は製糖部門の再編合理化を模索した。その結果、平成5年に3社が株主となり翔南製糖㈱を設立し、製糖事業を同社へ譲渡して統合した。翔南製糖㈱は豊見城工場と西原工場で糖業の立て直しを図った。それでもさとうきびの
減産を止めることはできず、とうとう、平成10年(1998)の製糖を最後に西原工場を休止した。そして平成11年12月、多くの関係者が見守る中、静かにその歴史を閉じた。
 一方、沖縄本島の中北部においても平成10年北部製糖機と沖縄県経済連が球陽製糖㈱を設立し、製糖事業を同社へ譲渡して統合した。その後、平成13年には工場を一つに集約した。

 戦後の沖縄経済を支える主要製造業として、繁忙をきわめていた沖縄本島の6つの分蜜糖工場も以上の変遷を経て、平成10年代には2工場が操業するのみとなった。
 中部製糖相は工場跡地に延床面積約2万坪の大型店舗を建設し、㈱サンエーにショッピングセンターとして平成15年から賃貸した。同年、中部製糖樹は社名を新中糖産業㈱に変更し、社業を不動産賃貸事業とすることになった。

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2018-03-14 20:05 (0)
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