Monumento

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2018/01/07

Tags: 沖縄県 南城市

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奥武観音堂の由来

 17・18世紀の頃、一艘の唐船が嵐に遭い奥武島に漂着した。乗組員達は、見知らぬこの島に上陸をためらっていたところ、島の山の上に白衣の美女が現れて、「案ずることはない。」と言わんばかりに手招きをしたので、「これは天の助け」と喜んで上陸した。すると島民達が集まってきて、着物を与え、焚き火で冷えた体を温めたり、お粥を炊いて手厚く介抱した。乗組員達は島民の心からの支援に深く感謝し、島民の支援を得て船を小港(クンナト)の岩に繋いだ。(この岩を「ミシラギ」といい、旧暦の5月4日に行われるハーリー(爬龍船競漕)の時は、最初に観音堂に一年間の航海安全と豊漁、島民の健康と融和、島の繁栄を祈願し、次にミシラギ拝所に同様な祈願を行い、御願バーリーを始める。)
 船の修理を終えた乗組員達は故郷へ帰ることになり、以前白衣の美女が現れた山に入って「我等一行これより帰国せんと思う。願わくば吾等に幸運を与えたまえ、無事帰国できるよう神様は我々をお守り下さい。願望が叶ったならば、仏様をこの地に祀って浄土としよう。」と祈願、無事帰郷することができた。
 その後、乗組員から琉球王朝を通して、奥武島に黄金の観音像一体と仏具一式を贈ってきた。しかし琉球王朝では、はじめ同名の他の奥武に安置したが穏やかならず、八方手を尽くした結果、玉城間切の奥武島がその地であることがわかり、間切役場を通じて奥武島に観音像が届けられたので、一宇の堂を建立して観音像を安置することになった。旧藩時代は王府が供え物一式を司り、その代行を奥武村出身の大城南掟(へえーうっち)が行っていた。その後、間切持ちとなり、後に奥武の村持ちとなったため、司は奥武の旧家大屋(うふや)が行っている。
 ここに鎮座される観音像は、代々島民の深い信仰を集めて現在に至っているが、この堂は昔3回(観音堂三興之記)にわたり改築されている。観音堂に関する記録は残念ながら残っていない。観音像は今次大戦まで無事安置されていたが、現在は陶製の観音像を安置している。又この堂も昭和40年9月の観音堂350年祭にちなみ、那覇市の渡辺健次氏が改築寄贈され、老朽化した鳥居も昭和60年観音堂370年祭の際、当区出身の安次富剛氏が改築寄贈された。
 境内の石灯籠には嘉慶17年秋分吉日嶺井親雲上、与那嶺筑登之親雲上、比嘉筑登之の名前があり、同吉日に比嘉仁屋、当山仁屋、城間仁屋、同じく吉日に玉城親方盛林、嘉慶25年には玉城按司から寄進されたのが現在も残っている。
 観音堂に掲げられている表札の意味は、次のとおり。
  ○「普濟」(ふさい)・・広く仏のみちによって人民を救う。
  ○「南海蓮花満部洲」・・南海に蓮の花が満ちあふれている島。
  ○「徳本慈悲被皆化」・・孝徳の根本は仏の慈しみ、哀れみを皆に教え導き人を善に移らせる。

平成19年12月吉日作制
   南城市玉城字奥武区

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2018-01-07 00:43 (1197)
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